2017年1月31日火曜日

展覧会タイトルが決まった!!!頭痛で布団の中でうなりながら友人と電話で30分くらい話して、朦朧とした意識の中に浮かび上がってきた 真言 である
 yeah

刷毛、洗いざらい

器の話でもしようか

中国の故事に「壷中之天」というのがある
「壷の中に天有り」ということらしい
壷の中には別天地がある。仙人たちが住まう理想郷があるのだそうだ。
NHKで、その思想がちょうど伝わったタイミングで前方後円墳が壷型になったのでは、と言っていた。
壷の中に別の世界・・・?
かわいすぎるぜ。そう思った。

器の表面、ぐるりと一周する。
巻物でもない。絵画でもない。絵が、ひとつながりになっている。
全体を見渡すことはかなわない。ぐるぐる、回して見るしかない。
輪廻というか循環というか。良いか悪いかは別としてなんとも神秘的な構造だと思った。
そこに壷の思想が入ってきちゃうとね。
もう器が神秘的で神秘的で、仕方がない。

トラース構造の話もやばい。

私の論文に「命に見合う器を設計し、焼成する」と書いてあった。

人間は器だと思う。

村上慧くんが「ともちゃんと話していると誰と話しているかわからない」といっていた。
私は透明な器なのかもしれない。
透明な器の底は、別天地の表面で、そこに映り込んだ像と慧くんは会話をしていたのかもしれない。


おしゃれでかっこよくて、ずるいよ

サチモスとかよ
顔、現代風ベストイケメンかよ。
ずるいぜ

いま売れることがそんなにハッピーではない
あんまり売れていないことはそんなにアンハッピーではない
自分が少しずつ時代とともに作り替えられていることに自覚的であろうよ

パラダイスとかサラダって響き
極彩色とか魑魅魍魎って響き
山とか川とか心とか、なんてシンプルな漢字
ふかぶかと こうべをたれる いなほな感じ

ゆめめく震え
とびだす飛躍
はげしい怒りと虚しい欲よ

祭り上げて思い上がって真っ青な油性ペンが紙ににじんで
乱雑な何もかもの配置に美を見つけ出して
居心地 心地 心の地

べつに恋人でもないし性欲もないし怒りも愛も気にせずに
酔っぱらえば手をつなぐし 朝になれば忘れるし
何も求めないのにどこかでつながっていて
君といると宇宙を感じちゃうな、自分の心の中に。なんて
そんなフラットな組み合わせで未知の表面を遊歩しようよ
誰でもいいし 誰でもよくない いい加減で いい塩梅の関係
好きも愛してるも語るに落ちる そんな存在

表参道を、ストリートを、薄紫のにじむ灰色の空を見上げながら
手をとりあうでもなく 
酒酌み交わすでもなく

宇宙と交信試みようよ






2017年1月30日月曜日

information更新

informationのページを更新しました。
個展の会期が決定しました。タイトルとDM仕上げないとね。

ちょころで

バッテリーは充電したら動いたので交換しないで済んだ。
1620円で済んだ。
毎日乗らなきゃ。

わたしたちは動画 せかいは映像

頭痛がやわらいできた。
もう寝たいのにペースがめちゃくちゃだ。
奥深くに沈み込むしかないのか。
闇の中で白い光を浴びていなければならないのか。

KOHHてめちゃくちゃかっこよくないか。
時代を共有するってこういうことだよね。。。
これがアートってもんでしょう。
命の様相でしょう。顕微鏡で遠くを望むということでしょう。

女性へのライバル心、アートを語るものへの反骨心
活躍するものへの嫉妬心、未知なる意志への好奇心

徴を顕し遠きを望む

朦朧と前置き

4ヶ月以上原付に乗らずにいたら、バッテリーが上がり、近所のバイク屋さんでバッテリーを交換してもらう羽目に。急な出費となった。
バイクはこわいからいやなんじゃ。都会は車ブンブン通るし信号も多い。すぐ近くに三車線以上ある交差点もある。道路は狭いし路駐はあるし、人は多いしアドベンチャーが過ぎる。

原付に乗らなかった4ヶ月余の間、もし乗っていたら事故で死んでいたかもしれないと思うことにした。そうすれば、ほんの1万円余など、命の尊さを思えばたいした額ではない。
これからは毎日乗る。

2ヶ月余頭痛がひどくて仕方がない。

それでも展覧会のタイトルを考えなければならない。制作をしなければならない。
一日の後半になってくるともう耐えられないほどに痛んで、ずきずき脈打ちはじめて、吐き気がして、光と音で余計に気持ち悪くなり、暗く静かなところで横にならずにはいられない。
仕事中は頭痛しないんだよな。なんでなんだ。

私はアニメが大好きだがオタクというほどではない。
密教が大好きだが信者というほどではない。
大倉孝二が好きだがストーカーにはほど遠い。
あまりこだわりもないし、趣味もない。
私のようなタイプが何かにこだわると、頑なで融通がきかなくなるだろう。
私はそうならないための処世術を心得ているともいえる(かもしれない)。
あと、逆に言えば、何にでも興味がある。
私が感知する全てが観察対象で、向き合うべき事象で、好奇心をそそるもの。
全てが私に影響を与えているし、その全てが表現活動に結びついている。
生きる行為の全てが作家活動に繋がっている。

書きたい内容の前置きのさらに前置きみたいなところで集中力が切れた。
頭痛め。

まだ整理されず言語化しきっていないもやっとした自意識を文章にしていく作業は楽しいが頭痛は意識を朦朧とさせる。

2017年1月29日日曜日

集中に耽る

考えを深めている時、ふと降りていく感覚に気づく。「降りている、降りている」と意識することでより深い意識の中に潜っていける。
そして真言(展覧会タイトル)を見つけ出す。

2017年1月4日水曜日

展示はミラクル

自分の作ったものが注目されるなんて、自我としてはウアアアアアアって感じです。
発表するのを当たり前と思って生きてきていれば、こんな違和感はないかもしれない。
私の友人じゃない全く見知らぬ人が観るってなんかモゾモゾする。
自分の匂いを神妙な面持ちで嗅がれたらどうですか?そんな感じ。
でもね、展示を当たり前と思えるくらいやりたい。
注目されるの当たり前って思えるくらい。
何が当たり前か、っていう定義を覆し続けたいから。

自分は何を想って、どうして作品をつくるのだろう。
作品って意識は、「集中」とか「想いを込める」という意識と同義なんだ。
私にとっては、作品を作る= 精神統一 =自我を越える修行 みたいな感じ。
あと、想いを込める = 感謝 = 祈り っていう感覚がある。
表現 = 宿命 だとも思ってる。
作家 = 人生 だし。
字面を見るとおもしろいな。表現は命のお宿。なんて。かわいいね。

だから私にとって作品作ることは高尚でもないし、遊びでもない。
いや、遊び半分、高次元半分、半分ずつ要素は入っているかな。

生きる為に必要なんだ。

では展示はどうだろう。
あれはちょっと恥ずかしい。まだ慣れない。
学校のコンクール展とか、大学の卒業制作とか、アートプロジェクトで、とか、名目があって沢山の人が出る形態だとすんなりできる。エネルギーが分散するからかな。埋もれているって感じで、あったかいな〜ほかほか。みたいな感じか。
やることが当たり前、って空気がある。
でも個展はどうだろう。めっちゃ意味ありげだし、有意義でなきゃいけない感じするし、みんなが私の作品を観るために来る。見知らぬ人が通りがかりできても、私という存在を目の当たりにする。
こわい!恥ずかしい!想像が追いつかない!こわい!恥ずかしい!の連続。

まだ慣れない。常陸太田でやったときは、地域に移住してこんな創作活動していたよっていう成果報告でもあったから、意義や目的が明確だったんで当然のようにやってた。

個展をやったり、テレビで自分の作ったアニメーションが流れたり、そういう機会を今年は増やしていきたいな。そして自分の当たり前がひっくり返されるのを感じたい。