2015年2月20日金曜日

メッセージ

学部生の時からずっと良くしてくれた先輩となかなか会わなくなり
でも時々展示会場で会ったり 活躍してることを嬉しく思ったりそういう距離感だったのが
ひとたびinstagramでつながって、イイネされたりしたりしているのがなんとなく変で面白いなと思う。

イイネってなんだ。相手によって、意思の共有度がかなり違う。

同じイイネでも、意味が全然違う。
嬉しくないイイネとかはないけど
イイネってなんだ。

地域

アート
優しさ
楽しさ
here(ここ)

これらは広義にも狭義にも成りうる言葉。


例えば、大切な人だからこそ厳しい言葉を言う。

言っている本人は少なくとも「これは優しさなんだ」と思い上がってはならないと思うけど、言われた相手はそれを「優しさ」として捉えることができるんだ。

「楽しさ」も、既存の価値観で言えば「大量生産されたものを大量消費する」ということが主流かもしれない。

だから、人が遊びにきて楽しんで帰ってもらえるイベント、というのも、今流行っているものを無料で配布する、みたいなことをすれば多いに楽しんではもらえるだろう。
でも、「楽しさ」ももっと広く捉えることができる。
たとえば自分の住む町のことを真剣に考えること。考えることってすごく面白いことだと思うし、わくわくすることだと思うの。そしてそれを人に話して、はああー、そういう考えもあるのか、と反応されても嬉しい。ええ、そうかなあ?なんて反論されても、ちょっとドキドキして面白い。語り合っているうちに「あ!!そういうことね!!」なんて意識を共有できても楽しい。

一見、考えること、語り合うことなんて私にはとてもできない、そんなだいそれたことできない、小難しいから面倒くさい、などなど色々あるかもしれないが

やってみれば、実は考えることって楽しいことなんだと単純に実感できる気がする。

こうやって、それぞれの意識の中で「優しさ」の意味も「楽しさ」の種類も変化する。

それが当たり前だと思うんだ。

そこに既存の枠をはめてしまうことに危険を感じる。

これが「地域」です。こっからここまでが「あなた」なんです。こっからは他人ですよ。なんて言い始めたら。
ここは私の陣地です。あなたはここにいてはいけない。ここにいる以上私にはあんな遠くのこと関係ないわ。なんていうのもこわい。

それは自分で自分の枠をはめているってことだから。

枠をはずせば、近づくことも遠ざかることもできる。
その時々できちんと考えて調整することで、ちょうどいいバランスを保つことができる。

1つの価値体系に頼って、思考停止して楽観的に暮らすことはまったくクリエイティヴじゃない。



私はこのところ、ほんとに思うのだけど、自分で考えて自分で語ること。これがたった1人のちっぽけな人間ができる、最大限のことなんだ。


私は全人類アーティストであってほしい。それは、誰もがアーティストとして作品を作って発表してくれと言っているんじゃない。

誰もが自分で未来のことを考え、自分のことのように他人を捉え、他人の言葉ではない自分の言葉を見つめてほしいと思う。

苦しんでいる人たちは、大体が盲目的になっている。

何かで苦しんでいることはわかっているのに、その苦しみと対峙できていない。だから乗り越えることもできず、後戻りするか痛くないふりをするしかない。
どんどん思考も精神も弱っていき、最後には何かおおきな力にしがみついていないと体を動かせなくなる。
欲望だったり、権力だったり、法律だったり、親だったり。

人はひとりである。人は孤独である。それは、他人を愛せる本当の理由だと思う。


色んな意味を、色んな可能性を、悲しいことも嬉しいことも、なぜか観念は枠にはめようとする。枠にはめて、一番自由な素晴らしい選択肢を選ばせないようにする。


観念とも戦わなきゃいけないんだ。

観念ってとてもおそろしいんだ。
生存戦略として、何かを滅ぼさないと自分が生きられないのかもしれない。

そういう本能なのかもしれない。

でも、少なくとも、人間というのは、この世界というのは、決して満足できるような美しい世界ではないということを忘れちゃいけない。

本当の美しさ、本当の気高さっていうのは、それぞれの魂の中に眠っている。

それが覚醒したら、それは悟りの境地に達するってことなんじゃないかしら。
だからこの世ではそんな天国みたいな世界は見られない。
でもだからこそ眠っている物をトントンとノックし続けることが、そこにそれが「在る」ということを忘れないたった1つの方法なんじゃないかと思う。

考え続けることを終わらせないこと。せめて自分だけでも。


大切なことはみんなわかっているはずだけど、それについて、自分で考えていくこと。

そうしないと、それぞれの愛し方が違うってことも、自分の愛し方がこうだってことも、感じられないから。


人を愛することも、自分を愛することも、責任を持つことも、自分の暴力に気付くことも、これまで全然できていなかった。

少しずつそれがわかっていくとともに、一層、私はまわりの大切な人たちと語り合いたいと思うようになったし、大切な人たちの健康や喜びを祈るようになった。
自分にできることを直感的に感じ取ろうとするし、自分は今これを言うべきなんだろうなってことも感じられるようになってきた。
ひと呼吸おいて、相手を包みこむことに喜びを感じられるようになってきた。
昔は、自分を包み込んでくれるかくれないかを気にしていた時もあったよなあ。

思い上がらずに生きていきたいなあ。


私はずっとそうだった。

人が工夫している姿を見るのが好きなんだ。
だから先生になりたかったんだよね。

それはこういう意味だったんだな。


それぞれが自分の感覚に問いかけて、自分の感覚を信じて行動するって動作を見るのが好きなんだ。

自分で考えて自分語りをする姿を見ることが喜びなんだ。


人に作成してもらったホロスコープのことがずっと片隅にあって離れない。

どんな人と結婚するのかとか、どんな仕事をするのかとか。

どういう流れになるにせよ、今の流れはまったく間違っていないと思う。

良い方向に流れていっていることを感じられる。


自分の駄目なところを書き出せばきりがないけど
落ち込まずにやっていく。


大切なものを大切にして生きていく。


2015年2月15日日曜日

おともだち

きもいかもしれないけど大好きだあ
みんなああ 大好きだってみんなにおくらなきゃ
大好きだあ
みんな美しい
なんて美しいんだあ

嬉しいと笑っちゃう

なんて素敵な日。
苦しいことも悲しいことも痛いことも踏ん張ることも、きらきらと輝く日々。
営みが営みとして、しっかりと繋がっていく実感を毎日持てることは、明日への活力になる。
ここのところ、大事な話しかしていないし、とても大切な共有が行われている。
あらゆる人と。また、その瞬間を目の当たりにすることもある。
これこそ、星の巡りというのかもしれない。運命というか。そういう流れの中にいるのだという気持ち。


こんな日々はかけがえのない日々だ。


出会っていない人のことを、優しい気持ちで想う。にっこりと頷いて感じる。
なんでそんなことができるんだ。あなた方は、なんて素敵なんだ。
手をにぎるとあたたかい。近くに寄ると落ち着く香り。
うっとりと安心して自分を見据えることができる。


無意味なことは楽しい。
きっと、誰かを打ち負かしたり、卑下して嘲笑ったり、気持ちを踏みにじるようなことよりもよっぽど満たされるだろう。
自己愛にしがみつくのではなく、ただふわっと心が軽くなる夢中な時間が、色々な制限を忘れさせてしまうのだ。時間さえ、止めてしまうのだ。


「天使なんかじゃない」に出てくるアキラは、嬉しいと笑う癖がある。
私も、嬉しいと笑ってしまう。
馬鹿にしているわけではなく、嘲笑っているわけではなく、大好きな人の文章を読むとつい大笑いをしてしまう。


なんだか今日はいいことを聞いた。最近はまいにち人と良い話ができて、いいことを聞いて、大事なことがシンプルに浮かび上がってくる。

みんなが大切に想う人と、いいひとときが過ごせますように。
仲良しな人たちが、いつまでも仲良しでありますように。

ありがとう。みんな本当に。


11・12月の作業など

平安、江戸、明治、近代日本画の模写

ボストンのジャパニーズレストランに飾るYumiko Furukawaさんの作品制作補助。

転写したモチーフを筆でひたすら描写する。
シンプルかつ緻密なため、意外と技術と根気のいる作業。

模写であれ、作品という意識もなく心を込めずに筆を動かしても同じ表情は作れないし、画面の流れを写せない。
作者に乗りうつるような心地で、先人の筆先を想像して捉えて描く。それぞれがそれぞれの場所に符合するよう、リズムをぴったり合わせていく作業。

自分の書いたところ、弓子さん、織り交ぜ。


これ途中だ。私作



人の輪郭は弓子さん。モノの輪郭と全体の色、私。むずかったー!
暖炉が力作。

炎は描きがいあった。エネルギーが凄い。


馬も人も、迫る死闘に突入していこうとゆう形相、猛々しさにグッと集中力が高まった。弓の緊張感とか。



つい気持ちがのりうつってしまった、この女性。なんとなく恋をする気持ちが入ってしまった。
桜は楽しかった。

きちんとした写真ちゃんともらお。







2015年2月14日土曜日

2015年2月12日木曜日

芸術の絶対的無用性と関係の相対性

意味は過去
無意味は現在

価値は過去
無価値は現在

意識は過去
無意識は現在

生きているのはこの瞬間
そのあとも、まえもない

その瞬間 がぎゅうぎゅうと点滅している

目的はもたない
軸をもつ

わからないことでいっぱいな世界を視る
わかることは視ない

自分の強みも弱さもどうでもいいじゃないか。
今までのことは忘れな。
この体で構成しなおされて、残るんだ。
忘れても平気だよ。

過去の自分からの発信が優しい。


「できるだけ意味のないことをやりたい」
祈り、衝動、欲求、表現したいエネルギー そこに



以前にも言ったけどまず「誰かのため」はありえない。
物事すべて自分のためにしかならない。
言い方の問題かもしれないが「誰かのため」は本質的に利他性がない。
言い方がどうして大事なのかというと、言い方ひとつで見え方は変わるから。心底丁寧に表現を吟味して扱わなければならないと思っているし、そこには言霊が宿るから。


「元気にする」「地域のため」をあえて考えない。

アーティストのビジョンをブレさせないため。

元気・活性は様々な素材と動作、あらゆる要素の条件が揃ってはじめて着く「火」のようなもので、「火おこし」という行為によって生じる現象。
私たちは新聞紙になるときもあれば、火付け石になるときもある。引火の絶対条件である「空気」を送り込む風なのかもしれない。あるいは、この動作を行う手なのかもしれない。
それぞれがそれおぞれの役割以上のことを、1人でやろうとしても火はつかない。

火を目的に火おこしをしたとしよう。
そのあとその火をどうする?
驚いて、慌てて吹き消してしまうのか。
焚き火にうつして暖をとるのか。
ご飯を炊いて美味しい食事を作るのか。
憎たらしい人間の家に放火するのか。
じっと眺めてぼおっとするのか。

誰がそれを選ぶのか。

一人一人でしかない。みんなでも、地域でもない。
ひとり、ひとり。それぞれだ。

だから私は「地域のため」とも言わない。


相対的なものなんだね。



2015年2月11日水曜日

Deep Friends

友達が好き過ぎて、描かずにはいられませんでした。










最近の落書き














かんがえごと

もうすこしためよう。
ためてためて 呼吸をととのえて はあく。


かえさん。まじめさ、丁寧さ、きのぬけた空気、私らしい絵が描けました。
私なんてものを意識しないで、受け止めて描く。
そういうことができるようになりました。


すいすいふわふわ
たのすいふたり
くらしやすいふ
生活
暮らし
くらし まぼろし
水府人
すいふのたね
自由の種
もりもりすいすい
水府ひろし
水府暮らし
こさえる
すー・ふー(すー、い、ふーという呼吸)
手の内
風の味
自我を越える
足りないもの埋め合わせぐるぐる
おとなりさん
竜神・・うーん
こつこつ
じわじわ



内容:子供たちへのワークショップ、近況報告、アート解説、ご近所漫画
毎回テーマを決めてそれに沿って活動してみるとか。記者っぽい。記事っぽい。
綿密につめよう。

2015年2月9日月曜日

NODA MAP公演「エッグ」感想

エッグ感想。ネタバレ。2月5日(木)
B列だから2列目かと思いきや、なんと最前列の右側でした。

この演劇は2012年の再演。
2年の間にどんどん演劇に現実が近付いていく。東京オリンピック開催など。
この演劇を、現実が追い越さなければならない。そう感じる演劇だった。

「エッグ」という架空のスポーツをめぐる物語です。 しかも、この脚本は、改修中の東京芸術劇場の天井からはらりはらりと落ちてきた、寺山修司が生前書いていた原稿、とゆう設定。タイトルは「エッグ」。勿論寺山修司はそんな原稿残していないからフィクション。でもフィクションだと念押ししてくれるのは、幕引きの直前だから、なんとなくどっちかわからないって状態で話は進んでいく。
東京芸術劇場の芸術監督・野田秀樹はその原稿「エッグ」を拾う。しかし、拾ったはいいものの、エッグは末筆で終わっている。劇中、野田秀樹が何度も解釈をし直しながら、寺山修司が描きたかった真意に近づいていく、とゆうのがこの演劇の筋立てでした。
だから、同じようなストーリーで全く意味も解釈も異なる演劇が3回ほど行われます。 物語は何度も途中でやり直され、「エッグ」という競技の代表選手たちがあらためて東京オリンピックを夢見るという形で作り変えられてゆく。 その合図は「四年経てばまた忘れるさ!」という、軍人の格好をしたチームオーナーの一言。
その最中、徐々に浮かび上がってくるのは戦争の陰。 実は「スポーツ」は隠語で「戦争」を指していることが明白になってくる。 ゲームとしての「戦場」で繰り広げられる身体表現が、最後には満州の医療チームの技術が「戦争」に利用される姿として描き変えられる。
ここで、これまで描かれてきた「エッグ」という競技の奇妙さや違和感が、ワクチン及び細菌兵器を作るための作業と符合する。
大倉孝二扮する平川という役が後藤健二さんと重なるシーンがあった。偶然にしても。誰もがリアリティーを感じてしまっただろう。
大倉の死ぬ瞬間の苦痛に満ちた顔は大倉ファンとしても衝撃だった。
ちなみに主人公の名前は、安部。ずっとアベの名前が連呼されるのも、リアルと重ね合わせてしまって意味深になる。奇妙な心地だった。
最終的に、演者の誰もが戦争の被害者として命を落としていく。
主人公の妻夫木聡は英雄に仕立て上げられ、戦火の中に取り残され、死んでしまう。 深津絵里は逃げる術があったが、その場に残って共に死ぬ。
深津絵里と妻夫木聡が死んでしまった姿を観客が見つめる時間がある。 ただただ死者を見つめるしかない、苦しい時間が、たっぷりと。
そこへ、野田秀樹芸術監督がやってきて、散らばった、権力にひねりつぶされた真実の物語を拾い上げる。
そこはとても泣けました。
冒頭からずっと感じていたことで、以前から思っていることだけど、演劇ってものすごいエネルギーの凝縮された、身体の無駄遣いだと思う。これは悪口じゃなく。 芸術がどんなに現実に一石を投じようと、杭を打ち付けようとしても、直接的に影響を与える行為にはなり得ない。勇気を与えたとしても、人はすぐ日常に埋もれてしまう。 この演劇によって、一体どれだけの人が変わるっていうんだろう。って。 芸術のもつ絶対的無用性と、この物語で死にゆく、忘れ去られる人の死、戦争の歴史が重なって、あまりにも不毛な出来事を見せつけられている感覚に陥った。これは 作家だからこその視点かもしれない。
そこへ、唯一わたしたち観客と演劇を繋ぐ、現実の芸術監督・野田秀樹がやってくる。
彼が、寺山修司が描き終えることの出来なかった原稿を拾い上げることで、何度も何度も、どんなに隠蔽されてもなかったことにされても、何度だって拾い上げる人がいるってことを感じさせてくれて、それが私にとって大きな救いになりました。
そして演者の肩に触れ、死者を生き返らせる。幕引きです。 演劇は演劇だから、何度だって、悲劇も喜劇も絶望も希望も、記録されない様々な人たちの苦痛も、演じることで拾い上げてくれる。 やっぱり演劇は身体の無駄遣いであり、非日常の身体性が日常に埋もれた意識を呼び起こしてくれる装置だなって。 演劇が好きだし、演者が好きだし、演出家が好きだな。
尊敬する。
四年経ったら忘れるって言葉も、2011年の震災を思い出さずにはいられなかった。
とてもよい演劇でした。
パンフレットと劇中歌の特別セット買っちゃいました。
毎日聴いている。ぼんやりと。
パンフレットっていうのは、なかなか中身の薄いものなのですね。
でも演者たちの言葉は、ずっしりずっしり。野田秀樹の言葉も、ずっしり。買ってよかったかと。
気になったのは、演劇人であっても、野田秀樹であっても、「絵や音楽の才能がないものですから」というへりくだり方をする。
やはり美術、音楽って、そういう存在なんだなあ。
技術、表現力。美術教育の賜物だなと感じます。悪い意味で。

2015年2月7日土曜日

自分のために生きること

つい、生きるって言葉を使ったり
命、とか、重たい言葉を用いて熱く語る気質です。
以前はそんな自分と現実とのバランスに不安定さを感じていたけど、今はとてもしっくりくる。

とうとう写真家の仲田絵美さんのブログもアップされた。
人の文章を読んだり、人の考えていることを知る機会っていいものだ。


人のため、地域のため、そんなの詭弁だ。もろい弱い甘い。
全部自分のためだと言い切ったほうが潔い。
みんな自分のために生きているんだ。
利他性を持つことと、人のためという意識を持つことは全然違う。
人の、ため?まさかそんな思い上がり。
人を思いやることとは違う。

こういうのを、言葉尻に反応する屁理屈っていうのかもね!
尻と屁!

これは、再解釈して駆け巡るための修練です。

私は自分のしたいことが、利他性や他人との化学反応によってどうなっていくかに期待する。


昨晩はきもちわる〜〜いことを書いてしまった。
あ〜消したいって思った。
でもあえて消さずにいてみる。

私は赤裸裸でありたい。誰も興味がなくたって、自分から「物語ること」を続けたい。
人が思い上がらずに、自分にとって「しっくり」くる言葉を選びながら語る姿が好きだ。
だから私も実践している。


情報に踊らされない、卑屈にならず受け止められる。なぜだと思う?
それは大切な人を大切に思える気持ちのおかげじゃないかな〜と思うんだ。
利他性こそ、自分のためになるのだね。
人のためではなく、人を想う、それが自分のためになる。



ときめきに潤う女子のきらきらした瞳が見たい。



空と君とのあいだに

PCメガネにマスクをするとレンズがくもっちゃう。
目と鼻と口を、同時に守らせてはくれない。
そこでお湯を飲むのです。
画期的かと思いきや、お湯でもレンズが曇る。

「憎むことでいつまでもあいつに縛られないで」
憎んでいない。割り切れないだけ。
心の中で、吐き気がするほど醜い人に吐き気がするほど醜い暴力を向ける私。
なんで君たちは、平和に、大切な人を傷つけずに、幸せを得ることができないの。
世界で起きている出来事と、同じ。
君たちがニュースをみて「ひどい」「なんてことだ」「さいていだ」と思う出来事と同じように、君たちの幸せは私を裏切ることと引き換えに得たものだと本人たちは認めない。
自分たちのしたことを自覚できない。行動と言動を顧みることができない。人の気持ちを考えられない。主観を一切疑わない。
厚顔無恥の偽善者と、厚顔無恥の偽悪者。
人を裏切るって激重なんだぞ!げきおも!
おかげで少し成長できた。憎しみの種になんてしない。私こそ忘れよう。
心の中で巻き起こる暴力を、止めよう。

いまだにこんなこと言ってる自分に少し虚しくなりました。


何かが少し変わるってすごいことだよ。
人の意識が変わるって、小規模であってもとてつもなくすごいことだ。
それを成し遂げたのはディレクター1人の力でなくても、事業全体の成果であっても、個人的な手応えであっても、誰の成果であってもいい。
みんなで成し得た一つのとっかかりというだけで、手応えを感じて喜ぶべきことだ。
手放しに喜べなくていいんだ。でも、掴んだまま喜んだっていいよね。

一つ一つを大切に生きるってそういうことだよね。

私は私のやるべきことを、やるんだ。


NODA MAPの「エッグ」を観て来た。
ネタバレな感想は暇なときにかこう。
卒展のことも書きたいのになかなかかけないなあ。
私は考えることも大事だ。仕事でもプライベートでもいい。
けど、同時にだ。仕事もたくさんしよう。

エッグの劇中歌「喪失」をリピートで聴いてる。
不遜な幸せ。
デジャブ。きらい。
歌詞の端々から演劇の内容を思い出す。忘れたくないんだ。

演劇は非現実だ。
でも、その肉体は現実だ。
彼らの感情は、フィクションから生じたリアルだ。
それは生々しく観客に届く。
その時点でそこには大きなうねりが生まれている。
芸術の力だなあ。


私、恋愛と友情を混同しない。
だけど、区別もしない。


言わなくても届いている気がすることを、愛って呼んだりもする。

語ることで分かち合うそのやりとりも、愛って感じる。




2015年2月4日水曜日

風にまかせ波にまかせ愛にまかせ

人間でありたいだけ
流行り廃れる無常の中で
ただ人間でありたいだけだなあ












空き家みたり、お話したり

言葉にしたい欲と、言葉にするための思考と、その間にある「目に見えないものをガッと掴みたい欲」。間にあるこの情念が、絵を描く理由だ。


冷静にこうやってお仕事したいな、と思える日だった。


あの人の思いつき。あの人の角度。あの人の冷静さ。
色んな人がいて色んな考えがあって、色んな気持ちがあるなあ。
楽しい。嬉しい。楽しい!垣根こえたい!こえまくりたい!
色々な制度があったり、私には全く関係のない境界があったり、色んなものがあるけど、そこを縦横無尽に、どんなところへでも届くのがアート!
私が届かないところもアートが届く!そうであってほしい。
そしてそのためには、アーティストがしっかりと表現に神経を使い
人間としてしっかり職務をまっとうすることだ。。。。

芸大の卒展行って、半端ない作り込み、妥協のない展示風景に、まじで「やるな」と思った。尊敬に値する。先端は取り扱うものが特殊だったりするので、展示は特に気を使うんだよね。。よく頑張ったなあ。私とは全然比べ物にならない!かっこいい!
私も現代美術をしっかり頑張るよ!!すごいその気概がやっと出て来たよ。
私も現代美術家なのだ、という感覚。生まれてはじめての感覚。。。

The Roostersの「曼陀羅」いい。
あと松任谷由実がいい。


自分がなぜチベット密教が好きなのかわかった。
密教って、広範囲に伝える顕教とは違ってすごく内輪でじっくり伝えていく教えなのよね。ちゃんと自分の目の届く範囲で、しっかり受け継いでいく。身近なところをじわじわ繋いでいく。
そんで大乗仏教。
うむ。


あー3年て短い。でもいいんだ。3年終わってからのほうが、もっと面白いと思うので。


さーはやく卒展の感想書きたい〜。なかなかまとまらない。





2015年2月3日火曜日

HITACHIOTA / BEPPU

津田翔平「「閾」についての雑記」

東山佳永「ヒタチオオタ芸術会議に参加して」


2人の文章の素晴らしさ。
言葉にならないです。

人の文章を文章で褒めるの難しい。

コーディネーターとして参加した佐藤慎一郎さんの「高台の菊池さん家『井戸端アートギャラリー』開催によせて」も素晴らしい。
これ、読んだ時、びっくりしたなぁ。ブログに載せてもらおう。
3人の文章、合わせて読むと目頭が熱くなりますよ!


先日の卒展で、久しぶりに日比野研の同期とも会った。
ともちゃん、アートプロジェクトやってんの?(驚)て言われた。
そやねん。向いてる向いてないなんて関係ないね。

色んなプロジェクトに参加してきたなあって思い返してしまったよ。
自分自身はたいしたことはやってないんだけど、色んなアーティスト、色んな土地、見て来たなあ。

そんなかでも、別府の「混浴温泉世界」で踊った「別府最適音頭」。
音頭と温度をかけているのね。
この曲にね、お風呂の入り方の振付けが入るんだ。そしてみんなで盆踊り。
お祭り会場で、地域の方々もいっぱいで、踊ったんだ。
私は集団行動も嫌いだし地域のプロジェクトも、よく意味がわかんなかったし、アートと地域ってどう繋がるんだろうって思ってた。
でもこの曲でみんなで歌ったら、ここで人と人が繋がった・・ってとっても感動して泣いた。
いまだにこの曲聴くと涙が出る。
これすごい良い曲だし。
別府最適音頭
サックスはちょっと酔っぱらってるのかな。笑
インストの音源持っているんだけど、これがまた良いんだあ。


山中カメラさん作詞作曲。
喋ったことないけど、さけびたい。「山中カメラさーーん!!!」


なんか急に思い出した、私のアートプロジェクトメモリーでした。

色々、いまの活動に繋がっているんだなあってさ。




2015年2月2日月曜日

語ること。語り合うこと。語り継ぐこと。

私が明星学園小学校で学んだことは「自分の意見を話すこと」「他人と話し合いながら事を進めていくこと」。


日本人は議論が下手と言われる。
ツイッターなんかでのやりとりはまさにそんな感じ。不毛なやりとり。
議論の仕方もわからないで赤の他人とやりあおうとするからだ。


最初は身近な人とで良いじゃない。
何を言い合っても、少し行き違いがあってもすぐ関係を修復できる他者と。

それもできないとしたら、教育に問題があるんじゃないかと思う。


明星卒の人は、素直で飄々とした人が多いって思う。

同級生で連絡取り合ってる人なんて、正直2人しかいないけど。
遠くから見守ってる人はさらに2人くらいいるけど……。


ナイーブなんだけど、根拠なき自信を持ってる人が多いっていうか
堂々としてる。
頭良くないし暗算できないけど。
大事なことわかってる。
話し合うことが好きだと思う。
優しいと思う。
少なくとも、人のこと「それは常識はずれだわ」とあざ笑うことはない気がします。

その理由は、小学校の時の授業の進め方にあると思うのです。

明星は生徒たちが主導で授業を進めるスタイルでした。
先生は教えるというより、みんなが行き詰まった時にヒントを与える役割。みんなが最後に導き出した答えを整理して学問的に捉え直す役割。

この授業の進め方の良いところは、意見を言わないと進まないところ。
そしてそれぞれが出した答えの正しさよりも、いかに斬新か、説得力があるか、みたいなところが重視されること。
あんなにみんなを魅了した意見が、実は正解ではなかったりする。
あんなに面白いのになぜ?
そうか、答えはこういう成り立ちだったのね。だからあの意見では筋が通らなかったのだ。
正しいことは正しいこと。
面白いことは面白いこと。
正しいことだけが魅力的なのではなく、面白い考え方自体を魅力的だと捉える。
こんな雰囲気だと、間違ってても自分の意見を言える。
それぞれが平等に、正しい答えを導き出すための「言葉」を持てるのだ。

デメリットは、授業の進みが当然遅くなるとゆうこと。つまり、他の学校と比べて学力が…
また、最終的に小6になるといきなり詰め込み教育気味になる。話し合う内容も高度になるし。先生が説明しなきゃいけない部分も増える。詰め込み教育には慣れてない子供達なので、若干ついていけなくなる。


なぜこの話を書いたかというと、前の投稿で書いた「心の中の暴力を捨てることが第一歩」から、二歩目について書きたかったから。

私は他者に向けて語ること、他者と語り合うこと、そしてそれを続けていくことが絶対的に、すべきことだと思うんだ。

私はtwitterで口をつぐむことにした。
代わりに現実世界とブログで言葉をつむぐことにした。

無闇に、やたらめったら声に出すのはある意味暴力だ。
私はそういった暴力から身を引きたいと思った。

つぐむ。つむぐ。似て非なる言葉だな。


次回は、芸大の卒修展で観た小森はるかの映像作品「息の跡」と、趙純恵の歴史にまつわるインタビュー形式の作品について書こうと思ってる。
作品や彼女たちと話し合った内容から、地域の課題、社会の課題、起きてしまった原発事故と震災、様々な社会問題のことを色々と考えた。

私いつのまにかいろんな現実から逃げるのをやめたようだ。








2015年2月1日日曜日

世の中のあらゆる形の「暴力」に対して

仏教の世界には色んな仏様がいる。
憤怒尊という怒った形相もあるし、それぞれが色んな役割を持っている。
それは、きっと人間の要素の1つ1つを表しているんだと思う。
その中でももっとも大事にされているのが大日如来。
一番大事な、大乗の心を表している。
大乗仏教は自分1人の悟りを目指すものではなく、生きるものすべての救済を目指す教え。
大乗の心というのは、他人を思いやること。

私は思う。これは人の心の有様の、最も安定した状態を表しているんだと。

人は怒ったり、喜んだり、とても様々な感情を持っている。
そしてそれらは肉体において、精神において、とても多様な役割を生み出している。
一番大事な思いやり。これを大切にすることで、それらは全てが自然に、スムーズに動く。思いやりを失うと、どこかにひずみが生まれてしまう。
大事なことはたった1つ。それを忘れてはいけない。そして一番大切にしなきゃいけない。

もしこれを全ての人が実践できたら、平和になる。


ありえない、と思うだろうけど。


私がこの世界に対してできることの一番最初の一歩は、他人への暴力を捨てることだと思います。



世の中の沢山の暴力に疲弊してしまい、家に帰ってからあゆねとメールのやりとりをしていた。

あゆねもメールしようと思っていたというので、同じ気持ちの人がいることに救いを感じた。
そしたらあゆねが「もう人のこと嫌ったり憎んだりしない。」って言って
私も、自分の心の中の暴力ぐらいは止めたいって、同じことを思っていたことを伝えた。
100%良い人も100%悪い人もいない。
憎しみ合うように仕組まれている感じ、人の優しさや弱さを利用して、人の心をかき乱して、挑発したり萎えさせたり、そういう政治の仕方をする人たちがいる。
それでも敵なんて本当はいない。
誰も人を殺したくないし、誰も殺されたくなんてない。
ある人が言ってました。「暴力の伴う革命は禍根をのこす」って。
暴力によって革命を起こせたとしたって、その時ひとはみんな、ボロボロのはずだ。

そんな話をしていたら、あゆねが「怒らないでいられるために、学んだり鍛えたりする。仏教だねえ」って言った。

まさかあゆねが仏教と言うとは思わなくて驚いたけど、そうだなあって思って、仏教の視点から感じたことを書いた。




禍根は惨劇だ。悲しみと痛みだ。ずるい人はそこにつけこむ。
心をかき乱し、人々の憎悪を膨らませる。
権力者がつけこめば、政治的に利用されれば、またしても人は人と、したくもない殺し合いをしなきゃいけなくなってしまう。
殺し合いを望む人なんていない。一番こわいものは、権力だ。