2023年10月10日火曜日

 タイトルは、

「はっ」という呼吸です。

「はっ」という呼吸を、漢字変換したものです。



最後の手段という3人組の展覧会を観てきた。

上北沢 オープンレターというスペースで行われている。11月5日まで。

3331が閉館したので、そこから移転してスペースらしい。


最後の手段はチーム名。3人は私の大学の先輩たちだ。

大学生の時から、制作のお手伝いしている。

大学入ってよかったのひとつ。

先輩たちに出会えたこと。


とてもよい展示だった。

心地よい刺激と喜びを受け取って帰ってきた。


会いたい人のことを先月書いたが

思い浮かぶ人たちは、なんとみんな絵を描く人ばかりだった。

自分には画家の友達がいない。なぜなら、全員ライバル視してしまうからだ。

と思い込んでいたけど、私は変わったようだ。

会いたいと思う人、思う人、みな独立して「描くこと」を生業にしている人ばかりだ。

とても尊敬している、心の輝く人たちだ。


ここ最近の生活習慣の変化などによって、何か大きなカサブタが取れたのかもしれない。


あ、これを、つきものが落ちたというのか。


つきものがおちたシリーズでいうと、最近、現世だけで物事を考えないほうがいいんだなって思うようになった。

というか、そういう心地に戻ってきたとも言えるかもしれない。

世間では「切り抜き動画」や「ショート動画」がとても流行っていて、何かと要約したりパッとわかるものが好まれるようなんだけど、それってどうなんだろうって思ってたんだよね。

そこから気づいたんだけど、現世だけで物事を捉える、人生を憂うってことは、切り抜き動画みたいなもんなんじゃないかって。

いやいや現世だけで捉えられないよ!物事は他面的で、そして端がないんだよ。って、自分に言われたような気がしたんだ。

ぱちん!

(※腕を上げ指を鳴らして、世界線を変える音)


うむ。

だいぶフリースタイルな文章の書き方をしている。


輪廻があろうとなかろうと、どっちでもおうけい。

先祖代々って考えてもいい。

母、祖母、曽祖母、みたいな感じでいい。

林家、とかでいい。

過去世、現世、来世、と、繋がっていく。

じいちゃんばあちゃん、かあちゃんとおちゃん、わたし、むすめむすこ、とか友人知人でもいいよ。おいっこ、めいっこでもいい。

私という単位だけで、不幸とか幸福とか考えちゃうとすんごいみみっちい。


わあー、私、なんにも達成できなかった。と悲しむことなかれ。

私のかけらが誰かの養分になっている。むすめむすこかも、友達かも。

それがまた誰かのかけらになって、続いていく。

来世の自分に引き継がれるかもしれない。

そもそも私が今生きている基盤は、えっさほいさと沢山の過去世がつないで耕してきてくれたもの。おじいちゃんおばあちゃんが肥やしてくれたもの。


あー、私は何も達成できず死ぬんだ。

なんてことはない。


そう思ったら、いいバトンを渡したいなって思った。

私なりに手入れして、気持ちをこめたバトンを、来世なり、次の世代に渡したい。

次の世代ってあんまり現実感ないから、私はやっぱり来世って考えるのがしっくりくる。


過去世のわたし、ありがとう。現世の自分、できることしよう。来世の自分が幸せになるように。


長い長いスパンでものを考えよう。幸せを自分の人生だけの大きさで測るのをやめよう。


そんな感じで心が軽くなった。


私って、打てば響くんだ。描けばひろがるんだ。


ぐん、と音を立てて、何かがまっすぐに伸びるのを感じた。

多分、寝ている間に穂先はくるんと渦巻いて、羊のツノのようになるんだろう。

私の好きなかたちだ。

自然なエネルギーの流れだ。

2023年9月11日月曜日

会いたい!

なかなか人に会えないので会いたい人(何人もいる)を思い浮かべて過ごしている。

会うとしたらどこか。そこまでの行き方。どんな話をするか。

そんなことも想像している。


体のいたるところが弱っているので運動をすると膝が痛くなる。

ストレッチしないと。

ストレッチをする力も湧いてこないのよね。笑

人と話しながら、絵を描いてすごしたいなー!!!!!!


コロナ禍を経験してから、どうしてもマスクがとれない。

周りがとってもとれない。

とりたいなー。

でも、なんか人との距離や、飛沫を気にしてしまう。

なかなか私の日常は元に戻らないなー。


先日久しぶりに発熱。コロナでもインフルでもなかったけど、あまりに久しぶりで新鮮だった。

その時職場で発熱する風邪がはやっていたみたいで、多分職場でもらってきたんだけど

マスクしててもうつるんだなーー。

って思っちゃった。


あー、マスクとってもいいのかなー


でもとれないんだよなあ。


外暑くてしんどいね!


秋はあっという間に終わってしまうから

夏から秋になるこの少しずつの変化を目一杯、全身で実感している。


そろそろ、オンラインストアに以前制作したトートバッグを載せようと思っている。


陶芸の展示に向けて、マグカップの制作をしようとも思っている。

どんなものにしようかと、日々ドローイングを重ねる。


私は素直に自分の絵を描きたい。

そろそろ、素直にね


個展もやりたい。きっとカフェの壁などに飾らせてもらう形式になるんじゃないかとイメージして、カップやコーヒータイムからアイデアを膨らませている。

心地よくちがう場所にトリップする時間。

1人でくつろぐ時間。

対象も個も曖昧になる、ふわふわした心地。

一番きもちいいコーヒータイムを想像しよう。


一ヶ月に一度のペースで更新しているなあ。

人と話したいなあ!




2023年8月11日金曜日

円が意思を持つとハートになる。

社会の中でスムーズな人間関係を構築しなければならない

それが「大人」である、「まとも」であると考えていた。

というか、その枠にはまろうとしていたのが2016年からの自分だった。


本当の自分に誰も触れてほしくなかった。でも、実際は、そうやって秘めていることによってどんどん劣化していくんですね。。感覚というものは。


色々な殻を破り、時間的制約を破り、どうにかこうにか、このブログを更新するに至ったのが、まさに今。


最近読んだ画集は「アンリマティスの諸芸術のレッスン」と豊井祐太さんの「水と手と目」という画集です。

豊井さんの画集は言葉と絵がどちらもすごく響くよい画集でした。


映画は「君たちはどう生きるか」を観て、展覧会はマティス展、ホックニー展を観ました。

はっきり言って今年さ、豊作すぎません?

私、なかなか外出られないのに、、だからこそ、行きたい気持ちを抑えられず時間を作って行くんですけど。


もう一度、ホックニーと君たちはどう生きるかは観に行くつもり。映画は今月行くつもり。

損保美術館でやってる山下清もみたいよ!!!


外は灼熱。なんだよな。清澄白河も新宿も、行きたくないわー。

コンクリ無理だーー。笑

家出た瞬間から激アツだもんね。


まあとにかくいろんな作家の破壊力。迫力。色々感じますよね。いいですよね。

普通じゃないよ。普通とか言ってる人一番おそろしい説。

夫が自分のこと普通って言うけど、あれは周りの人との比較じゃなくて、完全に自分で自分をまっすぐ肯定してる表現なんだよね。だから、まあそれは例外だなと思う。


ひっさしぶりに文章書いているのはね、やっぱり書きたくて、それだけ。

書く人なんだ私は。

自分の思いを言葉にして発信したいんだ。


何かまとまったキーワードやテーマで書くわけじゃないけど

今回は

溜まってるんですよ、鬱憤も、喜びも、あらゆるものが!


あっと、野暮用ができたのでまた。


戻ってきたよ。


朝起きると体ばきばき。

ストレッチめんどうくさい。

ストレッチしても体ばきばき。

絵を描いていると自然と体が柔軟になる、とかならいいのに!!

絵も読書も、家事も、全部、体ばきばきになるじゃない。


毎日座禅と、散歩と、ストレッチだけしている人生だったら、悟りひらけそうだね。


とても抽象的な話だけど、昨年の8月から、いや、もっと前かな。結婚してからだろうか。ずっとブルーグレーにマゼンタが少し混ざったようなくすんだ淡い色だった思考が、尿道結石みたいに、ずっと体内に居座っていて、痛みはないけど何かくすんだ、時空のない焦燥が漂っていた。一言でいうと「くすぶっていた」。

で、4月くらいからなんとなく窓から光が差し込んで、かと思えば耐え難いほどの熱波が襲ってきて、我を忘れていた。

完全に自分を放ったらかしにして、ふと鏡を見て「私って私なんだっけ」となっていた。

だんだんと目を覚まして、映画とか展覧会とか見て心が蘇って、自分の感じ方、考え方っていうのが見えてきて、社会と接続したり亜空間と接続して、言語と非言語の行ったり来たりを繰り返して、そうして徐々に私のリズム、私の呼吸っていうのを意識できるようになってきた。


すごい焦りと、不安と、面倒臭さと、どこから手をつけたらいいんだろうという迷いと、自己否定と、だけど粘る諦めの悪さ。

そこから、具体的に、明確に、言語化、体現ってなっていった。

でもくすぶってて、もやっとしてて、目的がたくさんあって、とりあえずここからならできる!っていうところから、ほんと一歩ずつ。

線を一本引くところから。


そうして蘇ってきた、そして湧いてきた。ふかふかと柔らかく、軽く、健やかに。

うーんと思ったら、その先に踏み込んでみる。

下手くそでも。


言葉にしなかった時間、言葉にできなかったもやもやした時間は足跡となって、いつのまにやら地面を踏み鳴らしてふかふかに耕していた。

そういうもんだよね。


違和感とか、ぼんやりとか、さみしいとか、怒りとか、鬱憤とか、さまざまなこみあげる感情に一喜一憂して、頑張ったな、と、今は思う。


一進一退だけど、まずは言葉を吐き出してみた。


タイトルについては急にふっと思ったんだけど

円がゆらゆらゆれたら、曲線が2つになるなって思って。

曲がって曲がって曲がって、ずっと同じベクトルで永久機関だった円が、ぐにゃっと2つの向き、3つの向きになっていってさ。

それでハートになるなと思って。


私がいつも描いていた手ぐせの流線形、手ぐせから生まれたハート人間って、あー、意思をもった円なんだなと思って。

円が自由を欲して、欲望を体現するとハートになるのかなって。

へへ、うまく説明できないけど。私の中では着地した。


2022年4月18日月曜日

higher deeper rider

コーチェラ2022 観ましたか?

YouTubeで観ました。

KPOPって、英語ばりばりで、印象的なショーになってて、すごいね。

宇多田ヒカルときゃりーぱみゅぱみゅがあまりにも特殊な感じがして、興味深かったな。

rina sawayamaさんはハイブリットだけど、海外視点を持った方でもあるから日本音楽の取り入れ方のバランスがきゃりーとかとは全然違う。

今は純日本って古いよね。ないよね。海外から色々な音楽や作品が届く中で、日本人のミュージシャンたちもハイブリットになっていってるんだなーーって感じた。



それが、最近考えている日本のこととぼんやりと共通する

様な

貧しさの中の美学みたいなもの

侘しさ、寂しさ、枯れのこと

情緒のこと


日本って各国のローカルな手仕事や美と、近い感覚があるんじゃないかなということ。



ねむくなってきた



最近陶芸の歴史を勉強してるんだけど

日本って今のところ土器の出現が最古らしい。

現在の研究によると、東アジア一帯で同時期に出現しているみたいだけど。

1万6000年前には土器があったんだけど、1万年もの間、技術革新がなかった。

その間に中国や他国では窯が発明され、釉薬が作られ、どんどん技術革新が進んだ。

その技術が途中から日本にも輸入されて変化していく。

風土も関係あると思うけど、日本ってどこかのほほんとしているような気がするんだ〜。


それと、興味深かったのは、朝鮮の陶磁についての部分。

日本で高い評価を受けている陶磁が、朝鮮本国ではあまり評価が高くないということ。

やっぱり、高い技術力で作られた白磁や青磁は美しく高級だと本国でも評価されているんだけど、日本は三島、粉引、刷毛目、辰砂、鉄砂が高く評価されている。日本は「ローカルな表情」に美を見出すのだと書いてある。

ローカルな表情と言われて思い浮かべるのは民藝。そしておかんアートかな。

知恵を絞って拵えた手仕事の中にこそ、日本人は美を、芸術を見出すのではないか。

そういうものって世界中に沢山あるんだってこと。

日本人らしさ、というよりも、ローカルな美ってことなのかなと思った。

日本人の精神という、統合された芯があるのではない。


日本の陶芸の歴史を学びながら、日本人はこういうものに惹きつけられるんだろうなあという、その美学について考えていた。





2021年11月23日火曜日

reading

これは好き これは嫌い

それに惑わされる 振り回される


良いも悪いもレンズが歪んでいるだけなのに、好きと嫌いに振り回されてしまう

いや 好きと嫌いのグラデーションが 覆い隠されてしまうのか

どっちでもいい が良いわけじゃない

好きと嫌いに悩まされ その間を観察し 間を読むことを学んできたのだろうと思った。

万物斉同は鼻から辿り着ける境地ではないということ。


自分の「善悪も優劣も序列もない」という考えは万物斉同という四字で表せることを知った。

この言葉は見たことがあった。老荘思想だった。そうか、そこも繋がっていたのか。

絵だけじゃなかったのか。私の考え方は、とても東洋的な礎のもとに立ち上がるものだったのだね。

そりゃあアメリカで生まれたわけじゃない。当たり前なのだろうけど。

それでも自分は東洋、アジアというものに深く関心を持っているタイプなのだろう。


予備校の生徒もなんかダイナミズムというか、大地や風や、自然に根差す心を持っていて、まあ思想的には色んな国の人がいるだろうけど、スピリチュアルな感覚が鋭いなあと思う。

これこそ、コンクリートジャングルではない、自然環境によるもの、土地柄なのだろうか。



読むことは とてもおすすめしたいことだ


今までは観ること 観察すること まなざすことばかりだったが

目をうつすこと 次から次へと 流れるように文字に目をうつすこと

読むことにも意識を傾けるようになった


絵を描く者だからか観ることに全てを言い表そうとしすぎていたけど

今は秘めること 読むこと 受け入れること それらにも傾注している


何かと何かの間は面白い そこでしか見えないものがある

展望を眺め 頂で別世界を体感し また目をうつし大地を這い 一歩一歩踏みしめて展望を眺む

2021年10月7日木曜日

時間を巻き戻せ 時間は自由だ

過去に戻ることができなくても

巻き戻すことはできるのだ


巻き戻す、

ネガティブな響きがあるが

けしてネガティブな意味ではない。


時間とは違うベクトルでものを捉えることだ

 

これははじまりとおわりを作らない手法でもある。

 

成長 と聞くと上に伸びるイメージがする。

前進していくような、技術を高めて進化しようというような、そういうイメージだ

しかし植物の成長を想像してみよう。

ある程度成長すると、そこから種を残す活動に移行していく

葉は枯れ、土に還る。

何かと人はそれを老化と捉えがちだが、果たしてそうだろうか?

植物の成長の終わりは、新たな成長のはじまりに途切れることなく繋がっている。

伸びる成長の先にはぐるんと時を回転させるエネルギーが生じるのだ。 


もしそれを映像にしたら、きっとはじまりもおわりも、途中からわからなくなってしまう。

 

 成長について見方を変える必要がある。

 

 

ただ自分が、成長のための時間と思うことが嫌になったので

成長するのやめてみようと思った

そういう心の変化でした!

 

どうせ成長みたいなことは、起きるので、気にするのやめようと思った。

時間を巻き戻すことを、アニメーションはできるから。

アニメーションは面白いなあと思ったのです。

 

種が先か、実が先か 誰にもわからないのが全てのあかし。

 

 

説明するノリがなくて、今はただ思いを綴る感覚に任せて気持ち良くなっている

文章を精査して、すこしわかりやすくするかもしれないけど

まあいいか、今日は久しぶりにブログをアップしたから、こんな感じで許してもらおう。

 

非営利な活動がないと、営利に向かないよね。

 

営みと利益

それは大事なことだけど

 

営まないことと無利益も

心底、命らしいことだと思う。

 

 

自動筆記は心の中に漂っている外界のかけらを、私の窓の形を知るための術なのだ

窓も壁も、全てを透明にしてやるのだ

透明な窓に、絵を書くのだ

簡単に消える、簡単にはがせる一過性のエネルギーを投影するのだ


参加しよう

窓辺に参加しよう

 

過去に戻ることはできなくても

未来にはむかうことができる

2021年9月21日火曜日

1DAYワークショップ企画「パワースポットを建立しよう」





先日、1日プライベートレッスンを行いました!

「パワースポットを建立しよう」

自宅に癒しの空間を求める時代に沿った企画といえましょう。

 

たくさんの材料は海で拾ったものや、ボツになった作品の素材など。

ガラクタは色々ありますよね。それが再利用できる点でも環境に優しい企画です。

近所に落ちているものや、その環境にある素材を使えばそれぞれの土地の魅力が現れるんじゃないでしょうか。

色々な場所で行っていきたいワークショップです。

 

 

 

ところで、ワークショップの名前って、悩ましいですよね。

なんとかを描こう!なんとかを作ろう!になっちゃう!

なんとか作り とかでもいいのか!

 

近況報告でした。色々な企画をやっていきたい。

 



2021年1月13日水曜日

葛藤を文字起こしする

絵にするとはどういうことか

 

考えることと描くことは違うのか


「画面の中で旅をしなさい。」

 

言葉に操られるのではなく

周囲に翻弄されるのではなく


地に足をつき

紙に対峙し

自重をかけて何を運ぶのか

 

あなたが着目するのは線か 色か イメージか 奥行きか 運動か


絵を描くことはあなたにとってどういったことなのか

 

わかってもらうこともわからせることも 微妙じゃないかしら

 

私は自分の表現からまったく表現していない何かを見出す人がいたら嬉しい

すごいことだと思う

あなたが導き出したものは全て真実なのだ

 

遠くにいきたい 


踊り

旅?

叩くこと 流れること

掴むこと のばすこと



2020年11月20日金曜日

コラムはじめました

なんも書いてなくてゴメンナサイ!

 最近、【みらいチャンネル】というウェブサイトでコラムをはじめました。

 そっち一生懸命やってたらこっちが疎かになってしまいました。テヘ

ひみつのノート 1

まずはこちらを読んでみてくださいませ。

関連する記事に、2や3が出てきます。

明日か来週あたりに、4も掲載されます!

月1です。よかったら。

 

最近のウェブサイトはスマホから読みやすい仕様のものが多いですね。

コラムもスマホから読みやすいです。

 

bloggerは。。。。

 

むかしはしょっちゅうスマホからブログにアップしていたのですが、bloggerの仕様が変わってしまい、ものすごくやりづらくなってからだいぶ遠のいてしまいました。

PC環境も整ったし、これからは思ったことなんでもかんでも、書いていけたらいいな!

書きたい気持ちはヤマヤマなので


あとは一歩踏み出す! モリッ!!

2020年7月16日木曜日

7/7

死は、神様が与えた「担保」なんじゃないか。

死を感じる時、亡くなった人に触れようとしている


その子の家の最寄駅で水を2本買い、献杯した。
屋形船と花火の絵が書いてあるやつ。
船に乗り換えて、私のいるところからは旅立ってしまったけど
もしかしたら、同じ花火を見ているかもしれない。


私は何かしてあげられなかっただろうかという思いと
ほんとうに気持ちを汲むなら、よくやったって言ってあげたい
でも、その中心にあるのは苦しさ、痛みだったよね
心の奥まであたたかく救われる経験は毎日できるものじゃない
晴れなくても、曇りでも雨でも命は育まれるものだ。
いきることと死ぬこと 両方を育てる
だから両方とも 互いを担保しあって、助け合っているように感じた


さみしいな

触れたいな

後悔するのは自分のためにならないからしない
だけど、すごくすごく大切な人
ありがとう
よくやった
ほんとうに偉かった
よく生きた
よく笑った
苦しいこともちゃんと友達に教えてくれた
へんな虚勢を張らずに
自分のために動いたこともとても偉い

家族の身になったらこんなことは言えない
だけど、

本当に、なんの役にも立てなくてごめん
さみしくて、辛かったね
偉かったよ
ほんと






7/8

死は神が与えた「担保」なんじゃないかと思う

やる気うしなっちゃったらあんま夜更かしした意味ないんだ
明日は明日でがんばるんだ
やることあるんだ

私の言葉は万人に見せるものじゃないから

2020年6月16日火曜日

言葉が通じない、言ってることがわからない、これが私の人生の半分って気がしてきたぜ
気持ちがのっている記憶って、変形しやすいよ。
熱で変形しちゃうのかな。

経験で強度を増していこう

あ からはじまる色々

甘え
抗う
愛してる

いないいない、ば

打ち返す、投げる、打ち返す、投げる

疑い



美味しいつけ麺

甘えたくない
抗いきれない
安心の声に耳をすませたい

いない、いない

打ち返して、投げて、落として、拾って、ぐきってなって、投げ返して、暴投して、鬱
また、立ち上がって、打つ

endless

美味しいラーメン



つづきもあいだもない世界には
つづきとあいだの余白がある



2020年5月26日火曜日

草に水

楽しい時間を自分の中に抱きしめて、こっそりと楽しむ感覚。

似ているのは、
昼間に寝転んだ布団の感触とか、
自分とぬいぐるみが育んできた時間と匂いの交わりとか。

嬉しいなって気持ちと、新鮮さと、感動と、居心地のよさと、懐かしさと、ありがたさ。
今までめっちゃ窮屈だったものがほどけたよ。
ありがとう。

1月からの私のキーワードは秘密、かくすこと、心の中にしまっておくこと、言葉にできないものをしっかりと受け止めること。
最近はなんでもかんでも出来事をぺらぺら喋って消費しちゃわずに、よく噛んでよく噛んで噛み締めて、幸せ〜な気持ちをいろんな感覚器官で味わって、最終的に絵に込めていくことが人生なのだ。

秘密が必要だ。余韻が必要だ。
余白の中に自分だけの核心が隠れているんだ。

夜中の楽しいひとときは、自分たちだけが知ってる秘密の花園みたいな感じだった。

家にこもって一人で散歩して家族とだけ話をして絵を描いて仕事を時々ちょっとだけしている時間は自分がいつもどんなことを感じているのかをひとつひとつ思い出したり、確かめる機会になっていた。

自分しかいないから、単なる自分の気持ちというよりも、他者が一切ない空間における私、たったひとりの私の気持ちっていう感じ。
今日はそこから展開があった。
その気持ち、人肌の温度、心地みたいなもの、自分だけで感じていた肌感覚が人に伝わっていくのを味わったんのだ。


たくさんの人に共有される言葉をつい疑ったり抗ったりしたくなる。
言葉の上べで繋がろうとしても本当には繋がれない。
つながったのは、自分にとってはなんだったろう?

私は友達の愛情を素直に感じとり、嬉しくなった。
自分の気持ちを伝えるとか伝えなきゃとか伝わってるかな、じゃなくて、伝わっているものが伝わっているなっていう肌感覚。
なんともいえないバランスの時間を穏やかに享受した。

友達と話すのが新鮮。
絵を描きながら喋るのが最高。
新しい出会い。
人が描いている絵をみるのが好きなのね。
感性がにじみでる人間性も好きなのね。
素直さ、純粋さ、優しさ、熱さがなんかにじみでちゃう人って魅力的なの。
ていうかものすごいみんな魅力的だなって思ったし
そう思えた自分も、閉じてないじゃん、よかったって思った

なんだかこれ人に見られると恥ずかしいかも

絵を描くことも好きだし友達も好きだ
友達と超いい時間をすごせてハッピーだ

どんどんおばかになってきたぞ
多分さっきまでクラムボン聴いてたけど今無音だからだ

誰かの横槍で壊されるものにしたくないから、あえてペラペラ人に話したくないなって私は思う。
でもブログにはかく。
これは緊急事態だからこそ噛み締められるのかもしれないし、書き残したいのだ。
stay homeとかいうのもあれなんですけどね。みんなと同じ言葉使いたくないっていう。


私は自粛生活で得たものが確かにあるな。


ちなみに今日は記念日なのだ。

夜更かしの林 3:33

いい絵は「描く」ものじゃなくて「なる」ものなのかもしれないぞ


いつもの夜更かしとは違う夜

遠足みたいだな

パレットと汚れた水とかぴかぴのグレープフルーツと濡れた筆が目の前にあって
絵が机に立てかけてある

林小林林小林
最後は林小林林
林林小林
小林林林

友達と喋りながらいっしょに絵描いた
もうねむくてなんもかけないけど
高校生の頃ってクラスメイト全員絵を描く人だったよなって思い出して
絵を描く人に囲まれて一緒に絵を描く状況っていうのは私の懐かしい情景の1つなんだなって原体験の1つなのかなって思い出したよ。
嬉しいなこんな純粋にお絵かきして互いの絵を慶びあって

こんなに素直に話せたのはだいぶ久しぶりだ
なんでかってのは わかってるけど頭が動かないので夢の中で

嬉しい変化を書き留めて次また同じところでつまづいても歩けるようにしときたいな

楽しいな〜〜

優しいな〜〜

あずさちゃんはいつもこういうのを楽しんでたのね。これはリア充と言って間違いない!

2020年5月6日水曜日

5.6 雷

人の考えたアイデア(課題)を享受することって結局自分と他人のズレを認識する機会なんだなって思った。そういう意味でクリエイティヴな面はある。
授業をうける機会も減ったけど。

人から人への伝達っていろんな形があって興味深いな。
授業とか。会話とか。作品とか。読書とか。


学問研究とか、勉強とは、またちょっと違う軸の話。

違和感を拾い上げる

世の中でよいとされているものに惑わされない感覚を持つと、おのずと自分らしさが浮きがってくる。

子供の頃に体験した
ロウでバラのキャンドルを作ろうとか、起き上がり小法師を作ろうとか、楽しいワークショップのあとの充実感とわくわく感と、そして違和感を思い出す
できあがったものに納得できない感覚、完成に到達できてない感覚
そりゃそうなんだ。ワークショップで出会う素材と向き合う時間は短いし。

いろんなことを教わっても自分の作品じゃないという感覚
自分が作り出したものなんだけど、先生のように洗練されていないし、なんかイメージと違って物足りない感覚
この感覚を1回きりで終わらせてはいけないのだと思った。
ここからのステップのほうが、より一層豊かなワークショップが待っているんじゃないかと思う。

だから、自分が講座なり授業なり、単発の企画なりをやるときは、「先生と一緒に作ってみた」の「その先」を用意したいなと思った。
これは、お膳立てをするということではなくて
「やってみた」からの展開を作家は想像することができるだろう、という気概のこと。
「わたしがつくったんだ」という実感へと近づくための、企画の想像力のこと

作家がすべきことは1回だけの楽しいイベントなのだろうか。
これは連続していくべきなんじゃないか。
作家の観察眼で、生徒のモチベーションや主体性と向かい合い、別の次元に一緒に歩み出すことができた瞬間の楽しさは最上のもの。
なんか、思ったのとは違うけど、これは大変なことだね笑
とか、本人も笑っちゃう楽しい世界
二人で一緒に歩む世界

自分なりに、作家としての企画との向き合い方を考え直してみる。

2020年5月5日火曜日

kotoba wo nokosu syoudou

日記を書くことで定着する記憶、忘れてしまっても外部に記録する装置になる日記

言語化することには様々なあり方がある
わかりやすく説明するためのもの
目に見えない感覚を省みて検証するためのもの
思いを言葉として刻みつけることによってより強く心に定着させるためのもの
誰かに心のうちをさらけ出すためのもの

言葉は嘘になってしまうことも、高まってしまうことも、縛り付けられることもある

私は何かを積極的に肯定しながら、省察の余地を残すために言語化を試みる

絵を描くことは何を意味するのだろう
絵を描くときにはまた、いろんなテンションがあって
最初は違うんだけど、途中からどこか懐かしい獣道を駆け回るような感覚に戻っていく


意味は社会的なものになってもいいし、個人的なものでもいいと思う
意味自体に意味があったらそれはもしかしたら意味じゃないかもしれない

湖の波紋が地面にたどり着いた途端に消えるとは限らないんじゃないか

これを読んで、私はこのときの自分を思い出すだろうか?
多分思い出さない。

ほこりっぽくて敬遠していた作業場を使い始めて2週間か3週間になる。
暇だから毎日絵を描くことができる。
何かに急かされることのない時間がものすごい癒しだ、そして活力だ。
活力だけど、怠惰だ。ごろごろと、めきめきが、ともにある。
どちらかではなくて、両方ある日々。
いいのかわるいのかまじめに考えるとだめな気がしてしまうけど
今はこれが私にとって支えになっているし、喜びになっている

好きな絵を描くこと
好きな絵
好きっていう気持ち
描きたいっていう気持ち
他人にうける、うけないじゃなくて、のめりこむ感覚。


久々に長居している作業場の本棚から、そういえばこれなんだっけと手にとったファイルには映画のチラシがファイリングされていて
お母さんとよく映画を観ていたことを思い出した。

お母さんだって、映画が好きだったのだ。

今のうち、母とたくさん映画を観たいな。

2020年4月22日水曜日

4/19

1/24に北京から帰国してかれこれ3ヶ月弱、張り詰めてたものが限界に達した。
今や月に10時間もない、勤務時間。
すくねえすくねえ。そのうちの2時間がすぐあとに控えていた。
うおおん、うおおんってむせび泣いて、すぐあとにリモートで仕事。
生徒の活動を聴きながら、今できることをそれぞれの想像力で実現しようとする姿勢に鼓舞された。
相手に伝える言葉が全部自分に帰ってきた。



ものすごいスッキリして、体がポカポカしてきた。

探り探りzoomやslackを生徒との間で活用していく中、小学生時代家が遠い友達とFAXを使ってお手紙交換していたことや、小学生の時にフリーのゲームをダウンロードして製作者に感想のメールをしたところから始まった年上のメル友のことや、心が孤立してインターネット上で知り合った人に支えてもらったことや、実は対面ではないやりとりの中で絆を築いていったいろんな出来事を思い出していった。

考えてみたら、デジタルも度を超えるとものすごいアナログに戻るんだなと思った。
光の速さで遠くの人と交信することで、野生的な直感を取り戻すようなこともある。

姉におねだりして貰ったホームスター クラシックで星を眺めながら寝るのが楽しい。
めちゃくちゃ自転車で爆走したあとだと、寝つきが良いので嬉しい。
散歩しすぎで筋肉でふくらはぎが太くなり、ずっとコタツの中で過ごしてたら太ももがぱんぱんに太くなった。

筋肉つけて体引き締めて軽やかなボディーを手に入れたい。
色んなことに気づけて、よかった。
特に、自分の未熟さと向き合えてよかった。

おしまい。